誰によって築かれたお城?
有子山城は但馬地域の守護であった山名氏本流最後の大名であった山名祐豊(やまな・すけとよ)が築城したといわれています。山名氏は一時は「六分の一殿」と呼ばれ、日本全国66の国のうち11カ国の守護を務めていましたが、その後衰退し羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)らに攻め込まれ本拠であった此隅山城が落城します。一旦は大阪府堺市へ逃げた祐豊でしたが織田信長の御用商人今井宗久の斡旋で但馬へ帰国することが許されました。
歴代城主は?
有子山城の城主は全部で4名。
1人目は築城した山名祐豊。有力大名の山名家本流最後の大名です。2人目はその山名祐豊を落城させた羽柴秀長。みなさまご存じの通り豊臣秀吉の弟で秀吉の天下取りに不可欠だった重要人物。3人目の前野長康は秀吉の無二の親友であったと同時に指南役でもあったとされています。4人目小出吉政は秀吉の従弟で大坂城の門番という要職を与えられていました。吉政は有子山の麓に出石城を築き政治機関をそちらへ移します。歴代城主を見てもわかるように秀吉と近しい人物が城主となっており、この有子山城が場所を含めいかに重要視されていたかがわかりますね。
獅子の山城と呼ばれる由来
有子山城は「獅子の山城」と呼ばれています。その名の由来は山名氏が但馬の王者であったこととされています。またこれとは別にもう一つ理由があると考えるのは山名氏城跡保存会の川見さん。「有子山城跡まで向かう道中には『獅子の逆落とし』と呼ばれるほどきつい坂があります。山登りガイドをしていてもこの『獅子の逆落とし』の場所で断念してしまう人も少なくありません。」これら2つの理由がまさに「獅子の山城」と言われる由縁なのですね。
今もなお残る石垣は
今もなお残る石垣は山の下の城下町からもはっきりと見ることができます。しかしこの石垣は山名祐豊が築城した当時はなく土城だったと考えられています。山名氏を落城させた羽柴秀長が山名氏の時代の終わりを町民に示すべく、当時織田信長の象徴とも言われた石垣を藤堂高虎作らせたと考えられています。藤堂高虎といえば今治城や宇和島城を築いたことで有名な「築城の名手」ですね。「28歳、羽柴秀長の命により出石(有子山)に築城を命ぜられた」と書かれた文書が残っています。このことから藤堂高虎が初めて手がけた石垣の城として注目を集めています。
有子山と名付けられた理由
有子山城築城前の本拠は此隅山城(このすみやまじょう)でした。しかし「このすみ」という名前から「子盗み」を連想し縁起がよくないと考えられていました。そこで新たに築城する際にその名を「有子山城」にしたと伝えられています。