大衆文化の中心だった芝居小屋の復活
出石永楽館は、明治34年(1901)に開館した近畿最古の芝居小屋です。染め物屋の主人が私費で建てたもので、出石城主仙石氏の家紋「永楽銭」にちなみ「永楽館」と命名。歌舞伎をはじめ新派劇や寄席などが公演され、但馬の大衆文化の中心として栄えました。
日露戦争後、国内では「活動写真(記録映画)」の興行が盛んになり、やがて永楽館も映画上映が中心となっていきます。 第二次世界大戦後は、劇場の姿を保ったまま映画館としても盛況を博しました。
その後、テレビの普及や娯楽の多様化などにより昭和39年(1964)に惜しまれつつ閉館しましたが、町の人の永楽館への思いは消えることはありませんでした。復活の声はどんどん高まり、約20年にわたる復原に向けた活動を経て、平成20年(2008)に復活を遂げました。
出石に華やぎを添える歌舞伎公演
2008年のこけら落とし公演を皮切りに、毎年、歌舞伎俳優の片岡愛之助さんを迎えて開催される「永楽館歌舞伎」が出石の一大イベントとなっています。(2020年〜2022年は新型コロナウイルスの影響で中止)
初日を前に行われる「お練り」も毎年恒例。1週間の公演期間、但馬内外から大勢の歌舞伎ファンが押し寄せ、出石のまちが歌舞伎一色に染まります。
人と文化が熟成されていく出石のよりどころ
まちおこしで舞台に立つ皿そば店主に会いに行きました。
渋谷朋矢さん
「さらそば甚兵衛」の主人にして、アマチュア落語家、出石民謡保存会会長、バンドマンなど様々な顔をあわせ持つ“サブカル男子”。盆おどりや仙石権兵衛など出石の歴史を掘り下げ、文化的なことへ貢献するのが渋谷さんのライフワークであり、まちおこしにもつながっています。
2011年に観光協会のメンバーを中心に発足した「いずし落語笑学校」では、毎年「永楽寄席わいわい亭」を開催。渋谷さんは「鳥肌亭(さぶいぼてい)ピリカ」の名前で高座に上がっています。
まちおこしで永楽館の舞台へ
城崎温泉街の土産物店で生まれ育った渋谷さんは、チャップリンとビートルズが大好きな子どもでした。のちにバンド、芝居、落語と縁を持つのもそこが原点と言えそうです。結婚後、奥さんの実家である出石皿そば店へ婿入りしたしたことから、深く出石のまちと関わっていくことに。永楽館の復活を切望していた義父の影響もあって、積極的にまちおこしの活動に参加するようになりました。
渋谷さんが34歳の時、まちの人が待ち望んでいた永楽館が復活。所属していた地元劇団の役者として、初めて永楽館の舞台に立つことになります。出石を舞台にしたオリジナル時代劇の上演。「ものすごくやりやすかった」と当時の印象を思い返します。後で知りますが、この時劇団の誰もが「包み込まれるような」感覚を味わっていたそうです。
演者として感じた永楽館の力
その後、出石のアマチュア落語会でも芸を磨いてきた渋谷さん。忙しい本業の合間をぬって練習に励み、年に1度、永楽館での公演を続けています。観客の反応について尋ねると、「プロとは次元が違うけど…」と前置きしてから「うまくハマった時はドォーッと会場全体が動いてくれる感じ。“きた!”という手応えがある」と教えてくれました。舞台と客席の距離の近さ、満席でも350人というサイズが生み出す一体感。「ここに勝る場所はない」と確信します。
まち全体で文化を盛り上げる
初めて出石に来た日、義父から聞いた話が今も心に残っています。
「観光とは何か。“光”とはそこに住んでいる人たちのこと。まちの人が楽しんでいる姿を“観”せてこそ観光客を喜ばせられる」。まちづくりに参加するうち、年々その意味を実感するように。
落語では馴染みの地元客が多く、公演後は「また来年も頼むで」と声をかけられます。今ではまちの人たちが心待ちにする永楽館の恒例イベント。その盛り上がりは、子ども落語家たちが集まる全国大会の開催などへも展開しています。
「ぜひ他のまちからも公演を見に来て欲しい」と渋谷さん。「文化度の高い出石の姿を見せたいという思いもある」と言います。まちの文化発展に惜しみなく力を注ぐ姿に、渋谷さんのまっすぐな郷土愛を感じました。
渋谷さんに聞いた芝居小屋のうんちく話
客席の最前列は「かぶり席」と言われる迫力満点の席。舞台から一番遠い席は「大向こう」と言って「待ってました!」などの声かけをする人たちが座る場所。この他に7〜9列目の「とちり席」というのがあります。昔は席の列を「いろはにほへとちりぬるを…」で表していたので、7、8、9列目が「と、ち、り」となることから名付けられました。舞台と程よい近さで全体も把握できるので、目の肥えた人はここに座ります。また、「とちり(ミス)」がわかりやすい場所とも。演者にとってはこの席に座る人が一番怖い。あえてこのあたりを狙って座るのもおすすめです。