歴史文化を感じる

復活した近畿最古の芝居⼩屋【出⽯永楽館】の歴史を振り返る

但馬の小京都・出石に佇む永楽館は明治34年(1901)、小幡家11代目久次郎によって建てられた芝居小屋です。明治期から残る芝居小屋としては近畿地方に現存する唯一のものとされています。

歌舞伎芝居や新派劇、寄席、活動写真などが上演され、戦後は映画館としてまちの人々を楽しませていました。

その後、主役の座をテレビに奪われてしまい、昭和39年(1964)に惜しまれつつも閉館してしまいます。しかし、永楽館を愛する人々から「永楽館を復原しよう」との声が高まり、約20年にわたる復原に向けた活動を経て、平成20年(2008)に復活を遂げました。

明治・大正・昭和時代の興行

永楽館ができた明治時代の上演興行は、もっぱら歌舞伎芝居や壮士芝居・寄席などでした。日露戦争中と推定される「浪花節特別大興行来る」のビラが保存されており、これには「号砲とともに開演」とも記されています。近くの川原で空砲を撃つ許可を警察に申請した書類も残っているそうです。大正時代では歌舞伎芝居、新派劇、活動写真が中心となります。
昭和に入ると永楽館には漫才、手品、落語、剣劇、節劇(浪花節の語りに合わせて芝居をする)、連鎖劇(芝居の途中に舞台でできない野外の動作などを活動写真で映し、再び舞台で芝居をする)、女道楽(女性だけで歌やコントの出し物をする)などがやってくるようになります。
また、昭和5年(1930)には映写室が観客席後方に設けられ、出石キネマ同好会が設立されるなど、映画館としての活用も増えていきました。活動写真からトーキー映画(映像と音声が同期した映画のこと)へと変わっていく中で、時代は軍国主義へと向かい、観客席の後方には憲兵のための臨監席が設けられました。

かつては子どもたちも興行のビラを配って回っていた

戦後の永楽館の様子

戦後、口伝によればエンタツアチャコ、宝塚歌劇団の来演があったといいます。従業員には大勘定(支配人)・木戸番・もぎり(きっぷ係)・下足番・お茶子・建物の維持管理を行う棟梁・大道具・小道具・衣裳などのスタッフがいました。寒い季節には貸火鉢、貸座布団がありお茶子が対応をしていたそうです。
時代の流れとともに、映画館としての役割が主体となった永楽館は、一階観客席の床がはずされベンチ席となり、いらなくなった下足場(履物を預かる場所)あたりに事務所が置かれ、そのカウンターでチケットが販売されるようになりました。

復原工事着手前の永楽館

永楽館の保存運動

昭和30年代に入り、多くの芝居小屋がそうであったように、全国にあった同様の小屋はテレビ時代の到来と共にしだいにその姿を消していきます。昭和39年に永楽館も経営不振により閉館しました。

 

その後、昭和60年代に入り出石城下町に住む人々を中心に、町並み保存運動が展開し始めます。城下町の町並みや名物・皿そばなどの観光資源により観光客が増え、古い建物をいかに保存し活用するかが住民や行政にとって大きなテーマとなったのでした。そして永楽館の復興を、多くの住民が行政にその支援を求めるようになります。

廻り舞台の修復の様子

足かけ20年に渡る夢が花開いた永楽館の復活

保存運動が始まって10年以上の月日を経て、復原へ向けたプロジェクトが動き出した平成10年(1998)。建物が町へ寄付され、出石町(現・豊岡市)の指定文化財となった永楽館は、復原に向けての建物調査が始まります。復原の目標は芝居小屋として最も華やかだった大正11年頃に戻すこと。

 

文化財の「復原」は、創建時の材料・工法で傷んでいる箇所だけを繕い、根拠に基づき忠実に元の姿に戻すという意味があります。推測で修復する「復元」とは違い、手間と根気のいる作業が必要とされました。
当時の様子を知るための聞き取り調査を幾度となく重ね、全国の芝居小屋を調査する日々。そうした苦労の末、平成18年(2006)秋、本格的な復原工事が始まりました。ボルトを使わない伝統の工法、忠実に再現するための気の抜けない作業が続き、匠の技の限りを尽くしました。そしてついに平成20年(2008)夏、完成を迎えることができました。

活きた劇場建築として

大正時代の輝きをそのままに、忠実に復原された永楽館。廻り舞台や花道などの舞台機構をはじめ化粧部屋、広告看板、出石の古い建物に特有の赤い壁土、地元の小学校から転用された水色の窓など、見どころはもりだくさん。
永楽館の歴史に思いを馳せながら、その息づかいを肌で感じてみてくださいね。

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