延喜式神名帳にも掲載、歴史ある「式内官社」
「但馬秘鍵抄」「但馬故事記」によれば白鳳14年(685)、「鷹野神社文書」によれば宝亀2年(771)と書かれており、創立年月には諸説あるようです。
ただ、社号標や案内にも書かれているとおり、延長5年(927)に撰修された「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)に「但馬国一三一座、美含郡一二座鷹野神社」と記載されており、少なくとも1000年以上の歴史のある「古社」「式内官社」であることがわかります。
創建時は猫崎半島の付け根にある賀嶋山に鎮座していたそうです。
今の賀嶋山と違い当時は離れ小島で断崖絶壁であったため、参拝が困難な氏子らの願いもあって、今の鷹野神社の場所に遷座したとされています。
過去本殿は何度も大火にあっており、今の本殿は弘化2年(1845)に再建されたものです。
万治3年(1660)の社殿からの大火で社殿はもとより古記録も消失したため、不明なことも多くありますが、歴史ある神社として地元ではとても大切にされています。
御祭神も創立年月と同じく諸説ありますが、「鷹野神社由緒記」には主祭神は武甕槌神(たけみかづちのみこと)、相殿神は天穂日命(あめのほひのみこと)、天満大自在天神(菅原道真公)。また明治37年の神社合併等によりその他の御祭神も奉斉されています。
地元では「浜の天神さん」「天神さん」などと呼ばれ親しまれています。
また、竹野は北前船の寄港地であったため、本殿には当時の船頭たちが奉納した船絵馬があり、船乗りの信仰を集めていたことがわかります。安政元年(1854)に「船清」、安政2年(1855)に「権吉」、明治7年(1874)に米屋惣太郎が奉納したものが残されています。
特に安政の絵馬2点は絵ではなく、北前船の側面を縮尺し、木材で平面に組み、絵馬板を貼りつけた「作り出し額」と呼ばれる大変貴重なもので、旧竹野町の文化財にも指定されています。
痕跡から昔の地形を想像して楽しむ
鷹野神社の周辺は時を経て地形や位置関係が変わっているところが多くあります。その中で特徴的なものを3つ紹介します。
①境内が割れている!?
本殿の東、道路を挟んだところに小さな社(摂社や末社)があります。
なぜ独立しているだろう?と疑問に思う人がいるかもしれません。
実は昔は鷹野神社の隣の道路はなく、その一帯も鷹野神社の境内でした。
竹野浜へと続く道を作るため境内の一部を道路にしたため、分断されたような今の形になったわけです。
②海がすぐそこまで?
①に挙げた小さい社の一つは舟霊社(ふなだましゃ)といい、漁師や船乗りの間で広く信仰されている船を守る神様が祀ってあります。その舟霊社の後ろになぜか階段があります。(行っても大丈夫かなと思うようなところですが、ぜひ見に行ってください)今は家が建っていますが、昔は船着場がもっと近くにあり、そこに行くための階段の名残りが今でも残っています。
③木陰にひっそり方角石?
舟霊社の同じ並びに、石臼のようなものがあります。
これは「方角石」と呼ばれ、天候予測や出入船の連絡のために使われていました。
本来は「岡見台」や「日和見台」と呼ばれるような小高い場所に置いて使われるものですが、今置かれている場所は木の下の目立たないところ。これでどうやって天候を見たのでしょうか。
昔は本殿の西側(今は道路や駐車場になっているあたり)に高さ10mほどの石垣が組まれ、そこに置かれて使われていたそうです。
今回は知る人ぞ知る特徴的な3ヶ所を紹介してみました。
昔はこんな感じだったのかなと想像してみると、きっと一味違う楽しみ方ができますよ。
一年の節目、人生の節目に寄り添う
鷹野神社は氏子や地域の人の協力によって大切に守られ、地域との関わりも大変深い社です。秋祭りには、のぼりや提灯などが飾り付けられ、地区の子ども神輿は鷹野神社からスタートします。初詣の参拝者には御神酒がふるまわれ、年末には雪の降る寒い中、新年の挨拶を並んで待っているのが大晦日の光景です。お宮参り、七五三、成人式、結婚式、厄払い、長寿祝いなど、人生の節目での行事を鷹野神社で行う人も多いです。
地域の人々は鷹野神社から季節の移り変わりや個々の成長を感じています。
今までも、そしてこれからも地元の人にとってはなくてはならない大切な存在です。