歴史文化を感じる

出石のロマンがここに【おりゅう灯籠】

円山川(まるやまがわ)の支流である出石川(いずしがわ)、さらにその先の支流に谷山川(旧出石川)があります。この谷山川の大橋東詰めに有名な高灯籠があります。通称『おりゅう灯籠』と呼ばれています。

柳町(出石町柳)にある文化価値が高い建造物として今も残り、大切にされています。

おりゅう灯籠が建立された時期は諸説ありますが歴史は古く、江戸時代から荷上場の燈明台として役立っていたのでは?と言われています。現在の形になったのが明治2年(1869)、もしくは辰鼓楼が建てられたのと同じ明治4年(1871)でないか、とされています。

おりゅう灯籠とは?

かつては『高灯籠』と呼ばれていましたが、のちに鎌倉時代の悲恋の主人公であった「おりゅう」にちなんで、『おりゅう灯籠』と名付けられたとされています。おりゅう灯籠は「柳町」にある「柳」という交差点の近くにあります。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に見立てています。

風に吹かれ柳がサラサラと揺れる様子に心が和みます。そんな優しい柳の木といつまでも一緒に、おりゅう灯籠は、出石の町を見守っています。

おりゅうの悲恋とロマン

今から700年ほど前、出石のある豪族の屋敷に若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を鍛錬した、たくましい青年でした。この屋敷には、おりゅうという美しい娘が奉公していました。互いに惹かれ合いましたが、身分の違いが二人を阻み、おりゅうは里に帰されてしまいます。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。武術に優れた若侍は九州の防御のために、旅立っていきます。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは舟着き場に走りましたが、舟は見る見る遠ざかってしまいました。
それから数か月後、彼の戦死の報せが届きました。おりゅうのからだが出石川に浮いたのは、その数日後でした。おりゅうの気持ちを知っていた母親は「若様が迎えに見えただなあ。おまえもあの世でしあわせになあ」と泣き崩れました。人々はおりゅうのために祠を建てて供養しました。そこに柳の木が生えて、やがて大木となりました。この柳にちなんでこのあたりを柳町と呼ぶようになりました。数年後、屋敷の欅の古木が倒れ、この船着き場へ流れつきました。人々はその木で灯篭を作りました。灯篭の灯りは、上り下りする舟の道しるべとなり、今でも「おりゅう灯篭」と呼ばれています。(『おりゅう灯篭』かわむらよしみ著)

『おりゅう灯篭』かわむらよしみ著 ※著者ご本人からお借りした絵本

このお話が、真実なのか作り話なのか、それはわかりません。ですが、出会いがあり別れがあるのが船着き場、人々の様々なドラマがあったのではないでしょうか。ロマンはそこここに溢れています。

 

おりゅう灯籠周辺の路地裏の道ひとつとっても、『神子(みこ)の細間(ほそま)』といった名前が残っているなど、かつての名残を感じます。

この地域には、春には川沿いに桜が咲き、夏には川辺に半夏生(はんげしょう)、秋にはミズアオイが咲きます。ツバメはもちろん、カワセミやオオルリ、セキレイ、サギを見かけます。鳥たちのはばたき、美しい声に心が癒されます。冬にはコウノトリも舞い降ります。

現在の川の水深は浅く、ヌマエビ、カワトンボ、カマツカ、ムギツグ、オイカワなどの生きものが生息しています。夏になると子どもたちが生き物を観察しにやって来ます。オオサンショウウオにも会えるかもしれません。

セキレイ(川見さん提供)
ミズアオイ(川見さん提供)
(個人蔵)

おりゅう灯籠周辺の歴史

出石の弘道(こうどう)小学校を卒業し、やがて弘道小学校の教師となった川見章夫(かわみあきお)さんに、おりゅう灯籠周辺の歴史について、お話を伺いました。

 

江戸時代には、大橋の東詰が出石藩の米・塩などを運ぶ、船着き場になっていました。柳町のおりゅう灯籠のあたりは、道も川も多くの人の往来がありました。そのため番所があり「升形(ますがた)」につながる場所として『西の玄関』と呼ばれていました。山陰道から出石に出入りする人々をチェックするのです。当時は、城や町の出入り口には、この「番所」と「升形」があったのだそうです。

おりゅう灯篭と大橋

明治時代には、柳町は武家の町から町人の町に転換しました。交通の要所として、またカフェや居酒屋など、人々が楽しむ場として賑わっていました。昭和になると旧出石鉄道が開通し、出石駅から大橋までの道は広くなり「出石駅前通り」と言われるようになりました。

大正から昭和初期には、北但大震災や台風による大洪水など大きな自然災害に見舞われました。度重なる氾濫を防ぐために、昭和9年(1934)に河川の改修工事が行われました。この工事が行われる前は、谷山川は今の三倍以上の川幅(約60m)で、水量も多く、豊かに緩やかに流れ、魚がたくさんいたそうです。
夏になると子どもたちは川でナマズ、コイ、カワムツ、オイカワなどの魚とりや、アユ、サケなどの魚釣りをしたそうです。

おりゅう灯籠のすぐ近くには水天宮があります。
この水天宮は、安徳天皇を祀ったとされ、水の守護神、安産の神様を祀る神社として信仰されています。水の神様が災害から守ってくれるように、水天宮のお守りをみんな持っていたそうです。明治9年(1876)の大火では出石全域に大きな被害をもたらしましたが、この水天宮とおりゅう灯籠は焼けずに残りました。

左:川見章夫さん(元弘道小学校教師) 右:山内安弘さん(元アンサンブル豊岡のチェロ担当)

川見さん曰く、灯籠の『擬宝珠(ぎぼし)』にも注目してみて!と。
擬宝珠とは、橋や神社、寺院の階段などに設けられている飾りのことです。海底に住む竜王の頭から出現したもので、毒に侵されず火にも燃えない霊妙なもの(=宝珠)、それを擬したものが『擬宝珠』です。

江戸時代には出石の宵田町の中央に、鋳物師(いもじ)町と呼ばれる鋳物業を中心とした職業の町があり、おりゅう灯籠の擬宝珠は、福井県五分一市から出石へ移り住んだ鋳物師、五歩一氏の作品です。
※五分一という地名との差別化のため、苗字を「五分一」から「五歩一」に改名されたそうです。

 

但馬の擬宝珠集め、をテーマにあちこち旅してみるのも面白いかもしれません。

 

出石へ行くなら、是非おりゅう灯籠周辺にも足をのばして、お散歩してみてくださいね!

奥田信之さん(安全パトロール)

地元の方にお話を伺いました!

◆「昔、ここには居酒屋があって大人たちが楽しく飲んで、2階から空になった徳利を川に放り投げていた」と、おりゅう灯籠の前で、毎日子供たちの通学を見守る奥田信之(おくだのぶゆき)さん

 

◆ご近所にお住いの山内安弘(やまうちやすひろ)さんに、当時の思い出を聞きました。「昔は川で泳いだり魚とりをしたりして楽しかった。親父の時代は飛び込みできるくらい水が豊かだった」とのことです。

 

ノスタルジックなイメージを膨らませながらの散策をお楽しみください!

参考文献:
「柳町 今昔物語~我がまちの歴史を未来へ~」柳町の歴史文化を伝える会
「ぶらり 出石の城下町」豊岡市歴史文化遺産活用活性化事業実行委員会
「出石物語」高山貞 著
「出石の民話 昔話」出石町教育委員会
「いずしこうどう てくてくまっぷ」弘道コミュニティ協議会

 

おりゅう灯籠のスポット情報

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