こんなところにポツンと神社
出石神社は出石城下町から車で8分(2.9km)と少し離れた場所にあります。
出石皿そばが人気の「出石城下町」は、出石城の築城とともに整備されました。出石城は有子山(ありこやま)山頂を天守としていた有子山城から麓に移されたものです。その有子山にお城が築かれる前は、出石神社の北側にある比隅山(このすみやま)にお城がありました(1372年山名氏によって築城)。永禄12年(1569)に羽柴秀吉に攻められ落城するまで、この出石神社のある地域が城下町だったのです。天正2年(1574)に有子山にお城が移されたときに「願成寺」「宗鏡寺」「諸杉神社」といった寺社も現在の出石城下町に移り、出石神社はポツンと鎮座する状況になりました。
但馬開拓の祖:天日槍(あめのひぼこ)
出石神社には、新羅(現在の韓国)の王子であった天日槍命(あめのひぼこのみこと)と、天日槍が日本にもたらした八種の神宝「伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)」が祀られており、この神宝の名前が地名の「出石」に由来するともいわれています。
天日槍は生まれた国に帰った妻を探しに日本にやってきました。最初に上陸した場所については諸説ありますが、日本書記では播磨、近江、若狭を経て但馬の出石にたどり着き定住されたと記されています。
泥海となっていた但馬の地の河口の岩石を切り、泥水を海に放ち、平野を現出して農作物の栽培を教えた等「但馬開拓の祖」と言われています。
出石神社 長尾宮司によると、出石城跡の隣にある「諸杉神社」の御祭神「多遲摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)」、豊岡市にあるお菓子の神様「中嶋神社」の御祭神「田道間守(たじまもり)」も天日槍の子孫で、代々但馬に住み国土開発に努められたとのこと。ちなみに、橘さん、三宅さん、糸井さんといった苗字の方は天日槍の子孫だともいわれているそうです。
この地域で有名な「但馬五社めぐり」は、この出石神社を中心として南北に各神社間約12kmにある主要な神社を巡って、ご利益を授かるというものです。この地域において、この出石神社は欠かすことができないパワースポットということですね。
鎮守の森に誘われ
出石神社の境内は約6,600坪あります。多くの立派な木々が生い茂り、神々しい空気に満ちあふれています。シンと静まりかえる空間に身を置くと、とても不思議な感覚になります。その感覚は人によってさまざまで、心が癒され落ち着くと感じる方もあれば、パワーに圧倒される人も。
神社では参拝してすぐ帰ってしまいがちですが、ここには「絵馬堂・休み堂」がありますので、ゆったりと、ぼんやりと木々を眺めながら、心が落ち着くまで一休みしてみるのはいかがでしょうか。
一つだけお気をつけください!境内の東北の隅に約300坪の禁足地があります。御祭神の廟所とも伝えられており、入れば祟りがあると言われていますので、決して足を踏み入れないようにしてくださいね。
昔の二の鳥居
出石神社の総門には、昭和8年(1933)に出石川改修工事中に見つかった二の鳥居の柱の一部が置かれています。かつて出石神社の二の鳥居があった場所は、出石神社から約1km、その名も「鳥居」です。また一の鳥居は出石町片間の狭間坂(出石神社から約5km)にあったとか。かなり大きな神社だったことがうかがえますね。
淡路島の由良湊神社にある「出石神社」
日本書紀によると、天日槍の子孫:清彦(きよひこ)の時代に、垂仁天皇の求めに応じ、出石神社の神宝を献上しましたが「出石の刀子(とうす)」という小刀一つだけは、なぜか離しがたく献上せず懐に隠し持っていました。結局は天皇に見つかるところとなり献上することになりました。ところが、他の神宝とともに管理していた小刀が姿を消し、出石に戻ってきました。そしてまた小刀は姿を消し、淡路(由良)に現れ、神として祀られました。それが淡路島の由良湊神社の「出石神社」の由来だそうです。但馬と淡路の出石神社の不思議な繋がりですね。